翻訳者を志して ― 私の果てしない旅

HAGESTEDT Nami (ハーゲシュテット 奈美 ― フリーランス翻訳者)

英語と日本語の狭間で適切な訳語を模索し、選定して対象読者に分かりやすい訳文を練り上げていくこと。原文の意味から外れることなく、かつ原文に引きずられた直訳ではない自然で的確な訳文を作成する「翻訳」の作業は、たとえて言うならば英語と日本語の間を綱渡りしているようなものであると考えています。こうした至難の業であるからこそ、最善を尽くして仕上げた自分の翻訳が公開され、読者の方々に好評をいただいた時の喜びは格別です。私が翻訳業務を始めたのは大学卒業後のことで、複数の IT・通信関連の企業で翻訳業務に従事しました。その後、米国のモントレー国際大学翻訳通訳・言語教育大学院(MIIS)の日本語翻訳・通訳プログラムで通訳と翻訳を学び、翻訳の修士号を取得し、米国テキサス州オースティンにあるナショナルインスツルメンツ(NI)のローカリゼーション部で、翻訳を含むローカリゼーション業務全般を担当しました。現在は、故郷の東京に戻り、フリーランスで翻訳およびレビュー業務を行っています。モントレー国際大学翻訳通訳・言語教育大学院での翻訳の学習、ナショナルインスツルメンツでのローカリゼーション業務の経験を共有することで、このページの読者の皆さまの一助となればと思い、今回筆を執ることにしました。

MIIS の日本語翻訳・通訳プログラムでの学習

米国のモントレー国際大学翻訳通訳・言語教育大学院で翻訳と通訳を勉強することを決意したのは、今から 6 年ほど前のことです。その頃は、東京にある大手情報通信企業で社内通訳翻訳者として勤務していました。エンジニアを対象読者にした仕様書などの技術文書や会議資料を翻訳し、会議での通訳をしていましたが、自分の翻訳・通訳スキルに伸び悩みを感じていました。大学在籍中に翻訳と通訳の授業、そして翻訳学校が開講している 1 年間の通信講座を受講し、大学卒業後も就業しながら通訳学校で通訳を学んできましたが、翻訳と通訳の勉強に専念する時間が取れず、中途半端な学習となっていました。海外に留学し、自分が大好きな学問を究めたいという夢をかねてから抱いていた私は、慣れ親しんできた大手情報通信企業での仕事を離れ、一流の通訳翻訳者になるという固い決意を胸に渡米しました。モントレー国際大学翻訳通訳・言語教育大学院での日本語翻訳・通訳プログラムに入学したのは、2005 年 8 月のことです。

モントレー国際大学翻訳通訳・言語教育大学院での日本語翻訳・通訳プログラムでは、原則として 1 年目は翻訳と通訳の両方を勉強します。1 年次の翻訳と通訳の授業では、日英・英日翻訳、日英・英日通訳、そして日英・英日のサイトトランスレーション(日本語・英語のテキストを短い意味のひとかたまりごとに訳していく学習法)の授業を受講します。2 年次には4 つの専攻コース(翻訳、翻訳・ローカリゼーション管理、翻訳・通訳、会議通訳)に分かれて、それぞれの専攻コースに応じた授業を受講し、2 年間の学習の集大成として、専攻の修士号の取得と卒業試験合格を目指します。

私の場合は、1 年目に翻訳・通訳の授業、および関連科目として英文編集と英語スピーチの授業を受講し、2 年目からは翻訳を専攻にして、翻訳の授業を中心に受講しました。ここでは、モントレー国際大学翻訳通訳・言語教育大学院での日本語翻訳・通訳プログラムで私が受講した翻訳の授業について述べます。

MIIS の翻訳の授業で得た成果

1 年目(前期)の翻訳の授業では、観光向けのパンフレット、書籍(ノンフィクション、フィクション)、雑誌記事(時事)、Web ページ(広告、技術)、医学論文などの幅広いジャンルの翻訳、および経済関連の訳文チェックを行いました。1 年目(後期)の授業では、経済に関するトピックを扱い、2 年目には卒業論文、翻訳理論、CAT(Computer Assisted Translation)、IT、電子・機械工学特許、医療、化学などの分野の技術翻訳、そして技術翻訳以外のさまざまな分野の翻訳の授業を受講しました。このように幅広い分野の翻訳に取り組むことで、各分野で求められる文章表現や訳語を習得し、実務で複数の分野にわたる多種多様な文書を翻訳するための素地を培うことができました。

翻訳の授業は、ディスカッションとプレゼンテーションから主に構成されています。毎回の授業で出される課題について、選定された 2 ~ 3 人の学生の翻訳を次回の授業までに目を通しておき、当日の授業でディスカッションします。翻訳の授業でのディスカッションを通して、誤訳、原文との意味のずれ、再考が必要な訳語および訳文に対する感覚を養うことができました。また、他の学生の翻訳に触れることにより、自分にはない語彙や文章表現を習得しました。当日の授業では、自分の翻訳の評価結果が教授から返却されます。ME(Meaning Error)、BW(Better Word)、good!、などのコメントが書かれた教授の評価を見るたびに、一喜一憂し、国語辞典、英英辞典、類語辞典を参照しながら適切な訳語を模索する毎日を過ごしたものです。また、翻訳の授業では、毎回の授業で出される課題に関連するトピック、もしくは翻訳に役立つトピック(例: 半導体、検索エンジンと検索テクニック)について、プレゼンテーションをします。1 学期に 2 ~ 3 回プレゼンテーションをする機会がありました。プレゼンテーションを準備したり、聞いたりすることで、各トピックについての知識を深めることができ、大いに勉強になりました。

モントレー国際大学翻訳通訳・言語教育大学院での日本語翻訳・通訳プログラムで習得した最も重要なことは、テキストや話し手が伝えようとしている「メッセージ」をとらえ、対象読者や聴衆に分かりやすい訳文を作成することです。モントレー国際大学翻訳通訳・言語教育大学院で勉強するまでは、一語一語を正しく訳出することばかりにとらわれていて、その結果、不自然で読みづらい訳文となることがありました。直訳的な私の翻訳に対して、教授からは「一語一語を英作文的に翻訳することから離れ、もっと生き生きと自由に、大胆に訳してみるとよい」とのアドバイスをいただきました。今日に至るまで、この教訓を常に念頭に置き、的確かつ対象読者に読みやすい訳文の作成を目指して切磋琢磨しています。

技術翻訳者としての第一歩

モントレー国際大学翻訳通訳・言語教育大学院に入学した当初は、一流の通訳翻訳者になりたいと強く望んでいましたが、1 年間翻訳と通訳を勉強した結果、瞬時に意味を掴んで訳出する通訳よりも、じっくりと落ち着いて訳文を練る翻訳のほうが自分の性格に合っていることが分かりました。そこで、2 年目からは翻訳を専攻にして、翻訳の授業を中心に受講しました。2 年目の技術翻訳の授業で、用語の訳や表記の一貫性が不可欠な技術翻訳に適性を見い出し、将来は一流の技術翻訳者として活躍することを希望するようになりました。国際的な実務経験を積むために海外で就職したいと考えていた私は、モントレー国際大学翻訳通訳・言語教育大学院のジョブ・フェアを通して、米国テキサス州オースティンに本社を置くナショナルインスツルメンツで社内翻訳者として就業する機会を得ることができました。新天地での生活と仕事に対する期待に胸を膨らませながら、テキサスへと渡りました。ナショナルインスツルメンツのローカリゼーション部で業務を開始したのは、2007 年 6 月のことです。

国際的なハイテク企業での経験

ナショナルインスツルメンツのローカリゼーション部は、ドイツ語、フランス語、中国語、韓国語、日本語のチームから構成されています。私は日本語チームに所属し、ナショナルインスツルメンツが提供するコンピュータベース計測・テストオートメーション製品、および製品に関するドキュメントの翻訳を含むローカリゼーション業務全般に携わりました。

翻訳業務では、印刷物やオンラインヘルプなどの技術文書の和訳を主に手がけました。ローカリゼーション業界で多用されている TRADOS(Workbench、TagEditor、MultiTerm)やAdobe FrameMaker などのさまざまなアプリケーション、および社内ローカライズツールを活用して、1 日平均 2000 ワードを翻訳し、成果物のレビューや用語の訳の一括修正を行いました。数々のローカライズプロジェクトを通して、用語や表現に一貫性のある翻訳を TRADOS や種々のアプリケーションを駆使して効率的に実現する方法を習得することができました。

また、翻訳業務のみならず、ローカリゼーション業務全般に関わることができたのも、貴重な経験でした。英文ライター、DTP 担当者、製品開発者、ローカリゼーション部の同僚と積極的にコミュニケーションを取りながら、TRADOS を使用した翻訳ワード数の解析、ローカライズプロジェクトのスケジュール管理、インストールしたローカライズ版ソフトウェアの翻訳チェックを含む、ローカリゼーション業務全般を担当したことで、ローカリゼーションのプロセスについて理解を深めることができました。

ナショナルインスツルメンツでの業務を振り返って、米国の企業文化と、複数の言語チームから構成されるローカリゼーション部という国際的な環境の下で業務ができたことは非常に有意義な経験であったと感じています。たとえば、現地の米国人の同僚がビジネスで多用する英語表現を習得し、会議や職場でのコミュニケーションを通して自分の意見を堂々と述べることを身に付けました。

また、複数の言語にローカライズするプロジェクトで、ローカリゼーション上の諸問題をローカリゼーション部の他言語チームの同僚と議論し、他国の言語の背後にある文化を垣間見ることができました。

MIIS と NI での経験を振り返って

的確で読みやすい訳文であるか。より適切な訳語はないだろうか。東京の実家に戻り、この問いを自分に投げかけながら、フリーランスでの翻訳およびレビュー業務を行う日々を過ごしています。業務の関係者と綿密にコミュニケーションを取り、多種多様なプロジェクトの翻訳・レビュー業務を担当する中で、モントレー国際大学翻訳通訳・言語教育大学院の日本語翻訳・通訳プログラムでの学習、そしてナショナルインスツルメンツでのローカリゼーション業務の経験が現在の仕事に大いに役立っていると実感しています。現在に至るまでの道のりは順風満帆ではありませんでしたが、翻訳に対する情熱を持ち、すべての翻訳課題・プロジェクトに全力を尽くして取り組んできたからこそ、翻訳者として着実に成長してきたと思います。今までの学習・業務経験を最大限に活かしながら、最高品質の翻訳を目指して、今後も一歩一歩前進していきたいと強く願っています。

拙文をお読みくださったこのページの読者の皆さまにお礼を申し上げるとともに、読者の皆さまの今後の益々のご活躍を祈念して、筆を置くことにいたします。

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